my imitative nude

2005年01月07日

自我の境界線

アメリカの電脳映画の影響を受けたアニメを見た。

電脳世界が蔓延し、果ては肉体も機械化され、残るは僅かな脳と自我。
脳は電脳世界に直結し、瞬時に「外部情報」を自らのものとし、
脳の記憶も「電脳世界」の影響を受け、変質する。

自分を認識し得るのは僅かな自我。
それすらも幻影かという狂気の中、存在は宇宙との同質化か無かに帰するのではないかという、
一応のメッセージ。

「自我」「存在」というのは、確かに永らく哲学のテーマではある。
現在に至っても現代思想の一部で扱われている。

そのような思索をしていたのは高校時代だったかと想う。
論理と現実の無限の照合。
気が狂ってもおかしくない作業。

一度、自転車に乗りながら幽体離脱に近い心理状態を味わったことがある。
一種の多重人格状態だ。
今では体力、精神力ともについていかないだろう。
それ以前に、そのような思索自体が虚しく感じる。

とはいえ、若い頃には特に一度は考えることがあるかもしれない。
「自分」とはなんなのか?

この問いにはいくつかの「答え」が用意されている。
客観的存在としての自分、主観的存在としての自分。
自分をとりまく関係性の中にいる自分、それを超越した自分。
存在論的には凡そコノ程度にまとめておけば良いだろう。

しかし、そもそもこの問い自体が生じる不思議さがある。
一般的には生きてる自分を疑う心理にはならない。
今、こうして存在している自分を「意識化」するなどは、
あまり大声で話すべき内容とは思えないのだ。

そこに潜むのは、「自分の存在」を神の視点で確認したいという願望ではなかろうか?
はっきりとした「自我」を求めているようで、
実は神になりたいという心理が働いているように感じてならない。
だから、存在論的な話は、どうも高飛車に感じる。

自我など対したものではないのだ。
それは物理的に言えば定義の問題に帰結しよう。
それでも、確かにミクロ的には「どこまでが自分の肌」ということはいえなくなるが。

久し振りに「自我思索」の醜さを見せつけられたようで吐き気がした。
確かに今後、特に脳を巡って「自我」の問題は哲学味をより帯びてくるだろう。

しかし・・・

やはりどういう形であれ、神にならんという
鼻持ちならない人間の傲慢さを改めて見せられるのは嫌な気分だ。



そんな下らないことは考えたこともないあたなは、多分、正常です。
ちょっと考えてしまったあなたも多分、大丈夫でしょう。
でも、少し検査した方が良かったりするかもしれないですポチ。←冗談です

2005年01月03日

まっつぐ

遥か緑けぶる彼方に天切り込む山頂だ
頂に至る線は もはや曲線とは言えぬほどにまっつぐだ

僕の前にも まっつぐの道がある
まっつぐ、まっつぐ山方に向かって道がある

霧が出れば見失い、露草を踏んで迷うこともあるが
立てば、まっつぐ、まっつぐの道がある

たまには曲がった道も進もうと
たまには後ろに下がってみようと

それでも道はまっつぐだ
まっつぐまっつぐに茫洋とした山頂に伸びている

まるで僕の意志など無関係に、嘲笑うかのように
まっつぐ、まっつぐ伸びている

まっつぐの道は迷い道よりも性質が悪い
曲がっても戻ってもまっつぐ、まっつぐ

お前が何処に行きたかろうと
まっつぐ、まっつぐ、まっつぐ さ
振り向けば、まっつぐの道がまっつぐ伸びている

道端には無数の髑髏
まっつぐ、まっつぐ山を見ている か?

人の背も見えるが表は見えぬ
彼の人もまっつぐ、まっつぐ、まっつぐだ

声を発してみてはしても
声までまっつぐ、まっつぐ、まっつぐ だ

ヨロイて歩いてみたりはしても
まっつぐまっつぐまっつぐ だ

まっつぐ、まっつぐ、まっつぐ だ
まっつぐ、まっつぐ、まっつぐ だ

2004年12月27日

朗読詩

詩を朗読する活動があるのは知っていたが、
WEB上ながら朗読詩を聴いて面白いな、と想った。

コトバは、書かれるだけでも話されるだけのものでもない。
そう考えれば、朗読というのはコトバの活動としては
あって不思議ではないのだなぁ、と。

以前は違った。
大げさな抑揚だけでも食傷してしまい、
たった1分の朗読にすら耐えられなかった。

聴いたものは大して変わらない印象もあったが、
「朗読」という作業を通じて、詩が変容する様が面白い。

実は、私はこうして書いている時に、
無意識にも自分のコトバを「読んで」いる。
稀に推敲するときがあるが、大抵は「読むリズム」の調整だ。

「朗読するもの」として書いたとき、
いや、私の書いたものが朗読されたとき、
そこにどんな世界が広がるのだろう?

でも、やはり人に朗読してもらいたくはない気も。
自分のコトバは、自分の声で読んで欲しい。
というよりも、自分が読むことを無言の前提に書いている気がする。

私のコトバは、自分で想っていた以上に
叫び声を上げているのかもしれない。
いやきっと、コトバ綴る人は皆、同じなのだろう。

2004年12月25日

公開マスタアベイシヨン

何故にこのようなツラツラを書くに至ったのだろう。
今頃になって考えることでもないのかもしれないが、
いつも触発を受けているミヲリさんのエントリで、らしくない内省を少し。

「どうせなら、書き物でもしてみたら」
ヒョンな一言に、言葉にしなくては暴発しそうな想いを乗せた言葉を書きなぐり、
それは全き孤独なマスタアベシシヨンでしかなかったが。

たまたまランキングの成績が良いのは自票のためだろうが、
それでもブログ・ランキングなぞをやっている心を探れば、
やはり読んで欲しいという気持ちが芽生えていたのは確か。
そして、こうして書いているもんは、どうなのだろう?という想い。

ランキングよりも、むしろコメントに飢えている。
私のところに来てくださる方は、皆、静かに去っていく。
時に暖かい言葉に触れようものなら、
「まぁ、このまま書いても良いのか」
などと、大きく安堵したりして。

いつの間にやら、孤独なだけでは物足りなくなった公開マスタアベイシヨン。
読んで欲しくなければ、一人でワープロとでも遊んでいれば良い。
ましてやランキングに登録なぞ、しはしない。
やがては公開マスタアベイションでは物足りなくなりゆくのだろうか?

「ピュアな表現者」などとは無縁の世界。
ピュアに自己の創造世界に入りたければ、むしろ露出など不要だろう。
それは「言葉の世界」に限らない。

誰が、全世界で創造される全てをその目に、耳にしているだろう?
所詮、見せてくれたものしか見れはしない。
「見せたい」気持ちがなければ、見れはしない。

少なくとも、私は「見られたい」のだ。
公開マスタアベイシヨンして満足している今の私には分からない。
物を作るとはナンなのか? 言葉を紡ぐとはナンなのか?

マスタアベイシヨンの見せ合い。
そんな滑稽で少し寂しい世界観の中で私は呟いている。
きっと、本当は、もっともっと激しく交わりたいという欲望を果たせずに。

サンタクロースの寝坊

昨晩はイブなので、まだ出番は早いかと思いきや、
クリスマス・プレゼントはイブ?
我が家の「サンタクロース」はあわてんぼうである。

急遽、娘の寝息を伺い、ソッと枕元に箱を。
本当に大きく育ってくれた。
両の掌に乗るほど小さかった命がかくも。

私宛に小さな冊子が一冊。
あわてんぼうのサンタクロース宛の本。
習いたてのひらがならが ミッシリと詰まった本。

さてと寝込もうというその時、ムクリと起き上がる長女。
プレゼントに向かって座り、無言でボーッと眺める背中。
「・・・」 コテン。

伺いに行った寝息は、すでにゴーゴーと。
念の為、話しかけても起きはしない。

朝、突然の嬌声に目を覚ます。
年に一度の、サンタクロースのお楽しみ。
「おゎ〜、サンタさんが来たよぉー!!」

(しめしめ・・・)
我が家のサンタクロースは寝坊助でもある。
ウツラ夢の中でニヤリとしながら夢を見る。

来年? 再来年?? いつになるだろう。
君のサンタクロースが横で寝ていることに気付くのは。
でもね、そのことに気付いたときは、一つ学んで欲しい。

世の奇跡も魔法も、人が作り出しているということを。
素晴らしい魔法を使う力が君の中にもあるということを。

そのことを学んでもらうために、
来年も、あわてんぼうのサンタクロースは寝坊します。

2004年12月18日

変わらぬ人〜存在証明のオマージュ

セゴビア。
クラシック・ギター界、いや、音楽界の巨匠。続き、こちらにおります

2004年12月13日

ギターを弾いていた。
クラシック・ギターだ。続き、こちらにおります

2004年12月07日

忘れえぬこと

忘れえぬことって、一杯ありますよね。
思い出すだけで嬉しくなったり、切なくなったり、悲しくなったり。
時に悔しくてたまらなかったり。続き、こちらにおります