2006年07月07日

身体喪失

kairouさんとの遣り取り、その脱線話を通じて日本(知識)人は「知性」を失った、というよりも「身体」を失った、というのが適切な気がした。
人は、いかなる状態にあっても身体を離れては存在し得ない。
(ただし空中に朧に浮遊している存在を除く)
このことは、知的作業と一般に言われるようなものでも全くに同一である。
近代における知の巨人、南方熊楠は、そういう意味でも本来的な知の在り方を直観か知性かによって理解していたという点でも偉大な人だったと想う。


もし分かり難ければ、音楽を例に考えると分かりやすいかもしれない。
音楽には知性・感性も勿論、大切なものではあるが、
何よりも身体芸術であり、技術である、と認識している人は希少なようだ。

知人に卓越したピアニストがいる。
リサイタル・パーティーで同席した際に彼女の来賓挨拶の数十分、
私は、その横から彼女を見つめていたのだが、あるいは演奏の時以上に驚嘆したものだ。

静かな呼吸に合わせて身体が膨らみ萎む。
機を計っての応酬以外では、彼女の姿勢はピタリと止まっていたものである。
通常、多くの人は私も含めて1分はおろか、秒の単位で「停止」出来ない。
簡単に試みることが出来るので、試してみるのも一興である。

能、狂言師の多くですら、いまや、そのような技術を喪失して恥じないのが実情であろう。
一言で言えば「身体が出来ていない」のである。
彼女と話した際の言である。
「それは、あれだけの大きな楽器に立ち向かうのだから、
 身体を地に付けて臨まないと負けてしまうわよ。」

人間の感覚、脳・・・思考は嘘をつく。
その嘘の由来は、私にとっては身体性の問題そのものなのだ。
「身体の枠」から飛び出した感覚、脳、思考に本体はない。
故にか、身体を喪失している人間は、容易に虚飾して愧じない。
これは私自身のパーソナルな経験則だ。

「野口体操」というのがある。
この身体の在り方に非常に焦点を絞って練り上げられた体操、その創始者(故人)と最近、話題のY氏の対談が手元にある。
野口氏とY氏、「見ているもの」が全く異なる。
のだが、その異なりを的確に把握していたのは野口氏のみだろう。
Y氏は「理解出来るもの」として臨み、それが故に遠ざかっているさまが見えて笑ってしまった。
(実際、野口氏はY氏の「理解の仕方」の過ちを諧謔交えて伝えようとしているが、
 その溝は、ついに埋まらないほど容易ならざるものである)

実はこのY氏には古武術研究家を名乗るK氏との対談もある。
K氏の研究(?)自体が身体性を喪失しているもの、というのが私見だが、
故にか、あまりに陳腐な日本古来(古武術)の身体の使い方、
のようなテーマで、飽かず下らないとしか言いようのない遣り取りが延々と続く。
身体自体のことですら身体そのもので受容しようという姿勢が、そこには皆無なのだ。

断っておくと、私はY氏に身体性のない典型的な現代日本の知(識)を見る想いがする、というだけで、
彼自身の諸仕事には大きな敬意を払って已まない部分も大きい。
しかし彼は踏み込んではいけない、いや、すでにして踏み込めない領域に入ってしまった。
恐らくは、そもそもが、既にして自身が「踏み込めない」ことを理解せずに。
現代における「知」の、ある意味、恐ろしい限界を身を以って提示している模型ともいえるかもしれない、というだけである。

書評などでも「息づいている」「息が聞える」かのような表現は多い。
これは読書という作業自体が身体性を有するものであることの証左、と私は見ている。
身体を全く動かさずに読書出来るであろうか?
身体を全く動かさずに記述出来るであろうか?

否、否。
須く、身体を使ってこそ初めて読書も記述も出来る。
そもそも、とは言え言い古されたことだが、脳は身体の一部でしかないことを忘れてはいけない。
そして文化や思考、その他の諸々は、身体を通じてこそ形成されるのである。
そこに伴う快感や痛み、躍動感や疲労・・・といった分かり易い身体感覚の中にすら宿るナニカ・・・身体そのもの・・・

その意味では、ある種の著述家達がスポーツに惹かれるのは(あるいはプロレス・ファンも異常なほど多い)、極めて自然で健全なことなのだ。
三島がボディー・ビルに走ったのはコンプレックスからという評が多いが、彼が本然的に必要としたのは作り上げられた身体そのものだったのではないか?
そこに見事に失われていた「日本性」を見れば、せめて衣装なりとも日本をまとって自決せんとまで想い至ったのは当然やもしれぬ。

知は身体にこそ宿るものであり、身体喪失は、すなわち知の喪失である。
知を磨かんがために身体を失えば知も朽ちる。
身体が生む知・・・いや「知」自体が身体から生まれるものではなかろうか?

身体の実体を見失っている人に「希望に燃えよ」と言っても無理があろう。
身体の実体を見失っている人に「自分の言葉で語れ」と言っても理解出来ようもなかろう。
自分の身体を見失っている人に「人の痛みを分かれ」というのも。
カルト集団の「エクササイズ」に容易に自分を見出した気になる時代、我々は自分の身体を失っているのだ。

といっても、容易ならざる道である。
近年、「気」をテーマに引っ張り出して対談した作家がいた。
気持ちは分からぬでもないのだ。
しかし対談相手、相手の話の内容そのもの・・・その作家も自分の身体を失っているのであろう。
「気」など、本職になるのでもなければ、別段、大げさに取り上げるほど不可思議なものではない。
死んでいる人間に触れた感触と生きた人間に触れた感触は、温度でも同じであれば区別が付かないのか?そんなことが分からない。
その話題に触れた時の私の周囲に満ちた溜息にこそ、ナニモノかを見た想いがしたものである。

触れ始めるとキリのないテーマだが、今の日本人にとって本当に必要な「知」がどこにあるのか?
たまには、そのようなことに想い馳せても悪くはあるまい。

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1. 『さかしま』 J・K・ユイスマンス  [ Doors open at 10 p.m. ]   2006年07月07日 13:40
「こんにちは」「さようなら」「おとなしくして、よく勉強しなさい」こんな風に、きまりきった挨拶しかしない父だった。夏の休暇には、少年はルウルの城館に帰省した。子供の帰省も、母親を夢想から呼びもどしはしなかった。

この記事へのコメント

1. Posted by 回廊   2006年07月07日 13:18
たぶん言葉なんて信じていないのだろうと思います。
目の前にある黒い石を、透明なセロファンに変えてしまうことだって容易にできてしまうから。言葉は都合よく伸び縮みします。

あらかじめ世界が求める雛型があり、あるいはその雛型を壊そうとして、構築していく言葉の胡散臭さ、それへの抵抗・拒絶が身体性だろうと思うのです。できれば身体性そのものが言葉を獲得していければいいなと、ぼんやりと考えています。

それと記事を読ませていただいて思ったことは、身体を捨てた知は、変幻自在で軽く、それを言う人も受け取る人も、ラクだと思う。だから疲れた現代人には、身体性は重過ぎる現実がある。それが良いとか悪いとかじゃなくて、「そうである」ということを、身体で伝わり、分かっていく、そういう面倒くさい作業も、私自身、必要だなぁ、と思いました。
2. Posted by まっく   2006年07月07日 17:24
回廊さん&私では「身体性」に対する反応自体も違うと想うんです。それは正誤のあるようなテーマや問題ではなく、同一人物でないのだから当然のことだ、と。そういうことも含めて「身体していく」のが私にとっての身体です。

「回廊さんの不足感(?)」は、そういう内省が深いということでは?私にとっての回廊さんは非常に身体を重視し大事してる人です。身体ごと書物や言葉、文字と格闘しているような。だから、そういう「嘘」がつけないし、でも諦めずに超克しようと格闘し続けるような。

その上手を行って裏切られても(爆)、それは私が稚拙なだけで。そうやって某かを身に刻んでいくのが身体を無視しない在り方ではないかな?と。
3. Posted by まっく   2006年07月07日 17:25
>それが良いとか悪いとかじゃなくて・・・
私も「良否の問題」は重視してないです。ただ身体喪失状態は、少し掘り下げると本人にとって苦しく不自然な在り方ではないだろうか、とは。たとえば「身体の一部がスッポリと抜け落ちたような」苦しみの在り方自体が、それこそ抜け落ちてしまったら、やはり苦悶すると想うのです。

p.s.
投稿コメントが長過ぎるんですって・・・(涙)
4. Posted by 回廊   2006年07月07日 19:28
>「身体の一部がスッポリと抜け落ちたような」苦しみの在り方自体が、それこそ抜け落ちてしまったら、やはり苦悶すると想うのです。

そうそう!(嬉)
これがまさに現代のテーマなんです。この苦しみを(多方面から)書いてやるべきなんだと、ひそかに私は思っていて、ところが時代錯誤、なぜか私は身体にこだわり過ぎて、それこそ「話がつうじない」状態になっています。今を書くことは、とても大事だと思います。

5. Posted by 回廊   2006年07月07日 19:29
まっくさんのほうが現代を分かっている!
ということが、私のなかで、ここでハッキリとしました。
>「そうである」ということを、身体で伝わり、分かっていく(byかいろう)
などと書いても、これは目指しているという意味ですから、私の時代錯誤、というか、ほとんど原始人なみの解釈の仕方、これしかできない融通のきかなさ...。

それと、こちらで頂戴した、まっくさんのコメントですが、とっても大人ですよね。私の、ガキっぽい頭とは、違います。たしか同じ歳じゃなかったでしたっけ? 申ですよね? どうしてこうも違うのか....滝汗。

p.s.
本文が長過ぎるんですって♪
6. Posted by まっく   2006年07月07日 21:39
こんばんは(^^)
回廊さんの苦しみは通じている苦しみ、だと想います。少なくとも私は、そんな回廊さんに脱帽し続けてきましたから。格闘度合いが、腑抜けの私とは比較になりません(苦笑)。

>「そうである」ということを、身体で伝わり、分かっていく(byかいろう)
実は「この一節にどう切り込んでいくか・・・?」が一番の難題でした(笑)。分かってらっしゃることを言葉を変えても本題から離れるばかりだし、ムムムゥ・・・と。少しは通じ合えた私達(違)?

p.s.
申ですよ〜♪
楽天まっくのイメージが強過ぎますか・・・?(==;
一応(爆)、回廊節を敬愛する同一人物です。

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