2006年03月02日

神話の始まり

モノの本によると物語、ストーリーというのは既に神話時代に原型があって、後代のものは全て、その類型をなぞっていることになるらしい。
この「類型化」というのは、学問の基礎みたいな「分類学」に似て、誠に研究者らしい作業で、私は大嫌いです。
いや、自分がするなら嫌いではない。
人が類型化するのが大嫌いなのです。

確かに物語を簡単にすれば、それは「葛藤」と「調和」の組合せ、とも言えたりする。
そこに「一定の流れ」があるとすれば、それは確かにそうなのでしょう。
しかし、何も「神話」を持ち出すことはないのではないか、と想うのです。
「神話」を持ち出すことに、どのような意図が込められているのかは定かではありませんが。

ここで神話がフィクションであろうが、ノン・フィクションであろうが、そんなことは大した問題ではないのですけれど。

神話には、確かに研ぎ澄まされたアイスピックを心臓にチクリと刺すような怖さがあります。
私は星物語が好きなこともあってギリシア神話を好むのですが、どういう倫理観・世界観で生きた人々が編んだのかと、毎度、驚きます。

母親とセックスして孕ませろと言われても、私にはトンと理解を超える世界であるし、自分の娘を犯してどうこうなどというのも理解を超える世界であります。
しかし、そんな私の理解を超える世界は神話ではなくて、どうも現実らしいわけです。
それは神話になり得るのでしょうか?
そこに神話は宿るのでしょうか?

現実世界の歪さが、人の理解を、想像を超えて姿を現したとしても、だからこそ神話が求められる。
それら病的、あるいは猟奇的と言われるような現実を身近に見聞きする時代だからこそ、そんな気もするのです。

神話の時代は、終わったのではなく、始まりを待っている。
もし、そう考えたとして・・・いや、止めましょう。

全ての物語に、詩に、神話は宿っている。
そんな風に感じられたら幸せだろうな、と想っただけです。

まっく記 at 21:13 記事全文
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この記事へのコメント

1. Posted by BlogPetのまっくぅさぎ   2006年03月03日 10:29
きょう、学問したいです。
2. Posted by まっく   2006年03月06日 11:07
したくねぇょ(大爆)!>まっくぅさぎ

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