2006年02月23日

斬影−春夏秋冬(1)

美しい星だった。
弥平は星に向って眼一杯に手を伸ばしていた。

途端に足場を崩した驚きに、彼は目覚めた。
既に明るさを取り戻した旅籠の部屋であった。

弥平は枕元に置かれていた冷めた茶をグイと飲み干し、そのまま、また仰向けに引っくり返った。
忙しくアレコレと想い巡ったが、それでも疲れ切った彼には思考と呼べる様なものはなく、ただ様々な断片が次から次へと脳裏に浮かぶばかりであった。
しばらくすると、娘が軽い食事を持ってきた。
彼はボンヤリと娘の所作を眼で追ってはいたが、娘に問う気力が戻る前に、彼女はいつものようにペコリと頭を下げて部屋を出て行った。

弥平はようように身を起こして卓を平らげ、再び身体を横たえながら障子越しの明るさに、美蒼の空に想い馳せていた。
透春の剣は、美しかった。
弥平はフと、師、紅秋の剣を想い出した。
瞳から止め処なく滂沱の涙が溢れ始め、彼は覚えず嗚咽に暮れた。
幾歳も堰き止められていた何かが、彼を包んだ。

(剣は、美しきもの、でもあるのだ・・・)

布団にくるまる彼の部屋に、ソッと人が入ってきた。
「その想い、どこに置き忘れておった?」
透春の、声であった。
全てを見通し、それでも慈しみに溢れたような声であった。
弥平が一頻り泣き止み、布団に座するのを、透春はジッと待っていた。

「辛い旅路であったな。」
「・・・?」
透春の意を解せぬ弥平の顔は、あまりに間抜けであった。
二人の間に、尻の落ち着かぬ空気が漂った。
「あっはっはっはっは!
 すまぬ、すまぬ・・・」
透春は、本当に申し訳なさげに頭を掻きながら言った。
こうしていると、彼も誠にただの好々爺でしかないが、途端に心から困った思案顔になった。

「透春先生、昨日は誠に有難う御座いました。」
弥平は、先ずは礼を述べた。
「正しくは一昨日、じゃがな。
 二日も寝込んでおったが、よく鍛えたものよな。」
「お恥ずかしゅう御座います。」
弥平はスッカリ殊勝である。
「うむ・・・どう話せば良いやら・・・」
説明に窮しながらも透春から聞いた話は、弥平には初耳のことばかりであり、だが、得心のいくことであった。

透春の話すところによれば、弥平の父は川元涼夏という武士であった。
無影流の彼らの先師は、四名の弟子に後事を託し、それぞれに春夏秋冬の一字を当てた号を与えたという。
涼夏の妻、弥平の母は弥平を産んですぐに他界し、涼夏も胸の病に倒れた。
彼は、当時、近隣に住んでいた子のない兄弟子、紅秋に「我が子と育てて欲しい」と言い遺して弥平を託しという。

そこまで話したところで、透春は静かにこうべを巡らした。
「弥生、お前も入りなさい。」
随分に間があったが、女将が伏目がちに楚々と透春の後ろに座した。
「わしは既にこちらにおったのだが・・・わしも子がなくてな。
 弥生はわしが引き取らせてもらったのよ。」
「と、仰いますと・・・?」
「弥生は、お前の姉じゃ。」
「姉様・・・?」

寝耳に水の弥平は勿論、透春もさすがに困った顔を隠せず、弥生を振り返って言った。
「弥生、何か申せ。」
「申せと仰せになられても・・・ただ」
キッと弥生の眼が鋭くなった。
「弥平、あなたは紅秋先生に何をお教え頂いていたのですかっ!」
「これこれ、何も急にそんなことを。」
「急も何も・・・」
弥生の眼に、雫が光した。

事の細かいことは分からずとも、とてもではないが、弥平は面を上げることが出来なかった。

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