2006年02月19日

斬影−庵に(3)

二階の部屋にしては足元は心地良く安定していた。
大小を部屋の奥側に横たえ、弥平は並んでゴロリと仰向けに天井を見つめた。
夜の準備を始めた階下の快活な様子が、僅かに開けてある襖の風に、早速に乗り行り始めてきた。
陽は既に大きく傾き、ピンと張られた障子も薄く朱色に染まり始めている。

(心地良い・・・)
弥平は、見るともなしに天井に向けていた眼を軽くつむっているうちに、いつになく眠りこけてしまった。
一刻も経ったろうか、既に陽は落ちていた。
しばらくすると、娘が灯を入れに来、追って膳を並べながら湯場の案内をして下がった。

質素ではあるが、丁寧な膳の造りであった。
塩焼きの早鮎は、箸を付けるやほろりと身を砕くが、身の脂は十分に残っている。
十分に火通しされているが、口中に放ると白米のようなトロリとした舌触りに、良い加減に塩が混じる。
残り骨は焙ってもらうことにした。
この宿の握り飯ならば、合わせて食っても旨そうである。

漬物も具合が良い。
大根と瓜だけであるが、しかし糠の手入れの良さを伺わせる。
鼻腔の奥に品の良い糠の香りを残し、大根と瓜は畑から抜いたばかりかと想うほど、それぞれの歯応えと舌触りを残している。
決して平穏とは言えぬ日々を送る弥平にしては、これほどに食が進むことも珍しい。

一頻り腹を満たした後、障子を開けて外気を入れながら、ボンヤリと片肘を掛けて街路を見ていると、想ったよりも往来がある。
その内の幾人かは、宿の馴染みでもあり、湯場も解放しているのであろう。弥平の宿に手拭い一本を下げて入ってくる。
(皆、良い顔をしているな・・・)
弥平の引き締まった表情のうち、頬だけが暫くぶりの不慣れな様子で不器用に緩む。

だが、視線は厳しくならざるを得なかった。
いずれの路歩き人も、歩並みが町人のそれではないのである。
一見すれば、ただ歩いている風にしか見えぬが、弥平の遠い記憶が気の緩みを戒めた。
懐かしい声が脳裏を掠める。
「当たり前に、普通に歩いていればかわせまい?」
弥平の目尻が心なしか湿っている。

路上の人影もまばらになった頃、弥平は久し振りの湯に想い馳せて子供のように駆け飛んで行きたい気持ちを抑えて階下に下りていった。
湯は宿の入口から真っ直ぐに進んだ先、三間も練り下った所にある。
川沿いに設けた山中ならではの湯の作りだ。
川音が強くなるとともに、山川の冷気が豊かな湯雲を空に描いては遠くの星空に溶け行っていく。
朗らかな声が山中の静けさを邪魔せぬように、人息の彩を気持ちよく描いていた。

湯場は意外と広く、幾人かが先に湯に漬かっているが、湯煙に紛れて見えない。
そこかしこに古傷を散らす弥平には、かえって都合が良い。
彼とて、あるいは好奇の、あるいは怯える目にさらされるのは好いてはおらぬ。
久方の湯につかって二の腕を撫でると、肌も早速に気持ちよく古皮を脱ぐ用意を始めた。
丁度良い岩枕に頭を預け、温かい湯と満天の星に身が溶け行って、このままに眠りに着きたいほど安らぐ。

しかしそれも、先刻の透春なる人物の話を聞く前までの話しである。
「透春先生はなんもせんのに、剣先がどうにも外せねぇんだよなぁ。
 あれで遠慮なく打って来いと言われてもなぁ。
 ありゃ、どういうことなんだろうかね?」
一同を深く同感させて沈黙させた様子の、その一言に弥平の気持ちも定まった。

弥平は、久方の湯に、垢も流しつくすには及ばずとも、谷風をひんやりと感じるほどに洗ったところで湯上りした。
台帳をめくっている番頭に透春なる人物は何者かを訊ねると、実に嬉しそうに答えた。
「透春先生は、この宿界隈の里で武芸を身分に関わらずお教え下さっている方でして。
 私も永年、お願いしていたのですが、先月になって、ようやくに少しなら、と許しを頂きました。」

「失礼ながら、あまり耳にするお名前ではないのだが?」
「先生がこの宿場近くにお越しになって、透春と号されてからは近場の者しか存じ上げはしないと想います。
 詳しくは知りませんが、昔は都でも相当の方だったとか・・・」

番頭が息を飲んで言葉を濁した視線の先に、二度目に会う女将が凛と立っていた。
「御侍様。透春先生のことで何か御座いましたらお伺い致しますが。」
弥平の直視を受けてジリとも動かぬ者は少ない。
(女人ながらにして・・・)

躊躇う理由などなかった。弥平は透春なる人物の名前を耳にしたこと、立会いを所望する旨を伝えた。
「かしこまりました、透春先生には明日にもお伝えしておきます。
 明後日の昼過ぎにでも、お時間を作っておいて下さいまし。」
女将はそれだけ言うと、番頭に今一度、目を向けて恐縮の様を確認して弥平のことなど忘れたかのようにツツと廊下の奥に消えていったのであった。

そして弥平は、透春の面前に立つに至ったのである。

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