2006年01月21日

言葉。喰らう、喰らわれる。

「太宰 vs 三島」ということすら考えたこともない私ですが、
御二人の著作は少しは読んだことがあります。
風さんの記事、そしてコメントで、少し想い起こしたことがあります。

>太宰はこの心根、ほっと出た言葉を綾織ってゆく。三島はそこからその言葉に肉付けをする。 by 風さんコメント

文学というか文章を書くというのは、もちろん、言葉の作業である。
と、想いたい所ですが、微妙に「言葉の作業」の中身が違うことがある気がするのです。
一言で言うと「言葉を喰うか、喰われるか」。

私が多少の嗜みを持つ分野としては音楽と武道などが挙げられるでしょうか?
どちらも言葉とは本来、縁遠い世界です。
しかし、それらの世界の何とも賑やかな言葉のネオン。
まるで深夜の歌舞伎町(は今も昔のようなのかは知りませぬが 笑)。

仏教には「拈華微笑」という言葉があります。
言葉を越えたコミュニケーション・・・
音楽も武道も、言葉では伝え切れないものが多くあります。
それを敢えて言葉にすることはあるのですが。

では「言葉を使う」のが性である文学の世界ではどうなのか?
そこに「言葉を喰うか、喰われるか」の違いがあるような気がしてきました。
今までは小説家を含めて文筆活動をされている方は、
 言葉を使いこなす人=言葉を喰らう人
と公式的かつ無意識に想っていたようなのですが、その心象は、少々、違う色合いがあるのではないか、と。

「言葉が独り歩きする」
とは、よく言われることですが、これは自分が発した言葉が受け手によって異なる、という意味で使われることが多いようです。
小説家などは自然と登場人物が動き出す、という書き方をされる方もいますが、それはまた別として。

小説を「全体として」一つの作品として構築していこうとした場合、
それは何かしら建築作業と至極、似ている作業に想えます。
私が、そういった手法の良し悪しを論じる立場にないことは当然です。

ただ、言葉が構築材料となっているように感じるときと、迸る言葉が見えない姿を朧に立ち上げるように感じるとき。
いずれかを好むか?
と訊ねられれば、私は間違いなく後者の言葉を好みます。

言葉そのものが生々しくも荒々しい生き物に感じるとき、私にとって、それは記号的な言葉というよりも、
何かそのものが得体の知れぬ生物のように感じられて好きなのです。
その向こうに「作者」の存在は不要でして。

あたかも赤子の泣く声のような・・・

そこに意味はあるのか、ないのか。

言葉を喰らっているのは誰か?
言葉に喰らわれているのは誰か?

ぼんやりと、私が何を好んでいるのか。
少し見えてきたような気がします。

まっく記 at 23:42 記事全文
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この記事へのコメント

1. Posted by 風友仁   2006年01月22日 18:11
わたしは、「言葉を喰らう」感覚に陥ったことがない。「言葉に喰らわれる」感覚に陥った時はなんたびと有ります。わたしは、「言葉をあやす」「言葉を綾織る」という感覚が大変好き、なのでまっくさんの、このお話を読ませていただいて、そんなこんなを思考した次第です。それにしても、あなたさまの書く文は深い、ですね。わたしは、嬉しい、良いです。      風友仁
2. Posted by まっく   2006年01月22日 22:18
風 さま

こんばんは、まっくです。
いつも過分な御言葉に恐縮です。
「言葉をあやす」「言葉を綾織る」
言葉と戯れるかのような感覚でしょうか・・・

徒然に書いていると「一語」をあやさんがために、
次の言葉を、次を、次・・・
と綾織る織仕事をしてるかのように感じることが私もあります。
出来上がったペストリイは見るも無残で御座いますが(苦笑)。

「言葉に喰らわれる」から「言葉に喰らわれる作法」とでも書き進められれば面白いかもしれません。
太宰vs三島は、やはり今でも十分に見据えるに足るテーマなのですね。

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