2006年01月

2006年01月27日

選択のない選択

メダカやらヌマエビを飼ってる関係で、貝の処分を時折する。
厳密には貝は大きく二種類いて、サカマキガイとインドヒラマキガイである。
インドヒラマキガイは意外と高価でもあり、少々珍しかったりアルピノという色素に乏しい希少種が産まれたりで放置して飼ってるのだが、サカマキガイは扱いが異なる。

そもそも、ある種の貝というのは、よほど人間生活に馴染むらしく、ドブ川でもなんでも、その増殖度合いたるや物凄い。
一時期、原子炉の冷却水の吸込み口にクラゲが入ってきて敵わない、という記事が出たが、実際は貝の被害も酷い。

まぁ、酷さを列挙しても意味ないのだが、貝を処分しながら想った。
私が貝を処分するときには無作為抽出であって、処分、つまりや摘み出しやすいという一事だけで処分されていく。
奴らも逃げるという行動が見られるのだが、それには付き合ってはやれない。

しかし、もし、もしなのだが、
「オイ。オイラヲ何デ選ンデ処分スルンダ?」
と貝が問い掛けたら、どう応えよう?
神様よろしくスマシ顔で無視するのも一つではあるかもしれぬ。

が、どうもそういう心境にはなれそうにない気がする。

他は何も変わりはしない。
ただ、貝の問い掛けがあったら、の話である。

2006年01月24日

漆黒の風

今朝の風は、室内にいると、それと気付かないほど意外に強い。
唸り音をあげるほどの強さではなかったので、全くに気付かなかった。
窓外の電線の揺れが視界に入るまで。

風や空気というのは身近ながら不思議なものだ。
それらを直裁的に認めるのは難しい。
しかし「ない」とは言い難いし、あるのだろう。

彼らはいつも「そこにある」というよりも現象として自己主張するようだ。
電線や干し物を揺らし、現象を通じて、
「ホラホラ、フフフ・・・」
と不気味な意志を持って迫りくるあたりは、まるでホラア映画のようではないか?

ソレが希薄な存在であればあるほど、現象としての現れを求めるものなのかもしれない。
大抵の場合、希薄さに比例して現象に対する要求も煩いものだ。

現象がなくなれば、存在とは消えうせるものなのだろうか・・・

誰もいず、なにもない漆黒の中でも風は吹くのだろうか・・・

陽の光の中で干し物が揺らいでいる。
先程よりも微かではあるが。
干し物は、揺らいでいる。

2006年01月22日

久方の厚い雲は 冷を得て生き生きと蠢いている
それほどに待ち切れないほどだったのか 白粉をバラ撒くことが

 雲ノ役目ナド考エタコトモナイ

そんな矮小な奴等を振り向かせんがために
忌まわしいが助っ人を呼んだのかよ

流々いずれは千切れ失せる身も証は欲しいのか?

今、お前はいない
お前の嫌う彼の人の光臨だ

しかし

お前の白粉は お前の嫌う彼の人の恵みの中で
確かに鮮やかに生き生きとしてすら見えるのだよ

今のお前が何処かは知らぬが

確かにお前が存在(ゐ)たはずなのに

そんなことは忘れられて眩さの中に埋もれ始めつつ

2006年01月21日

言葉。喰らう、喰らわれる。

「太宰 vs 三島」ということすら考えたこともない私ですが、
御二人の著作は少しは読んだことがあります。
風さんの記事、そしてコメントで、少し想い起こしたことがあります。

>太宰はこの心根、ほっと出た言葉を綾織ってゆく。三島はそこからその言葉に肉付けをする。 by 風さんコメント

文学というか文章を書くというのは、もちろん、言葉の作業である。
と、想いたい所ですが、微妙に「言葉の作業」の中身が違うことがある気がするのです。
一言で言うと「言葉を喰うか、喰われるか」。

私が多少の嗜みを持つ分野としては音楽と武道などが挙げられるでしょうか?
どちらも言葉とは本来、縁遠い世界です。
しかし、それらの世界の何とも賑やかな言葉のネオン。
まるで深夜の歌舞伎町(は今も昔のようなのかは知りませぬが 笑)。

仏教には「拈華微笑」という言葉があります。
言葉を越えたコミュニケーション・・・
音楽も武道も、言葉では伝え切れないものが多くあります。
それを敢えて言葉にすることはあるのですが。

では「言葉を使う」のが性である文学の世界ではどうなのか?
そこに「言葉を喰うか、喰われるか」の違いがあるような気がしてきました。
今までは小説家を含めて文筆活動をされている方は、
 言葉を使いこなす人=言葉を喰らう人
と公式的かつ無意識に想っていたようなのですが、その心象は、少々、違う色合いがあるのではないか、と。

「言葉が独り歩きする」
とは、よく言われることですが、これは自分が発した言葉が受け手によって異なる、という意味で使われることが多いようです。
小説家などは自然と登場人物が動き出す、という書き方をされる方もいますが、それはまた別として。

小説を「全体として」一つの作品として構築していこうとした場合、
それは何かしら建築作業と至極、似ている作業に想えます。
私が、そういった手法の良し悪しを論じる立場にないことは当然です。

ただ、言葉が構築材料となっているように感じるときと、迸る言葉が見えない姿を朧に立ち上げるように感じるとき。
いずれかを好むか?
と訊ねられれば、私は間違いなく後者の言葉を好みます。

言葉そのものが生々しくも荒々しい生き物に感じるとき、私にとって、それは記号的な言葉というよりも、
何かそのものが得体の知れぬ生物のように感じられて好きなのです。
その向こうに「作者」の存在は不要でして。

あたかも赤子の泣く声のような・・・

そこに意味はあるのか、ないのか。

言葉を喰らっているのは誰か?
言葉に喰らわれているのは誰か?

ぼんやりと、私が何を好んでいるのか。
少し見えてきたような気がします。

まっく記 at 23:42 記事全文
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siteki想論 

2006年01月19日

浮遊

昨今の脳科学の分野では「クオリア」というヤツが注目を浴びているそうだ。
モノの本によれば、それは
心の質感
とでも言うべきもので数値化出来ない、とか。



てめぇの実感くらいはてめぇで考えろ、感じろい!

と乱暴の一つも言いたくはなるが、それでは身も蓋もない。

では、このクロリア・・・やや、クロアリ、クロードチアリ、千秋直美、もといクオリア。
私流に定義させて頂ければ、それは「浮遊感そのもの」ではないかと想われるのである。
それが二極構成された平面、あるいは3次元はたまた異次元空間に位置づけられうる物か、それは知らぬ。

が、この生きているという感覚というヤツ。
私としては死んだ自分と生きてる自分の狭間で浮かんでいるとした方がしっくりとくる。
死を身近に感じたことのある人なら、今は生きてるわけだから容易に御理解頂ける感覚ではなかろうか?
死など感じたこともない子供時代に「生きている実感」があった記憶は不幸にして私の記憶の範疇にはない。

そう言ってしまうと「生きてる」という現象、これは相対世界にフワリ浮かんでいる浮遊感そのもので、数値化出来なかろうと、ある意味なんとも無機質でつまらぬ。
よく死人が浮遊しておるが、あれは現世とあの世の間を浮遊しておるのであって、これはまた趣が異なる。
ちなみに、そのような浮遊物体を確認したことはまだない。

しかるに人間が生きていることを浮遊すると定義するならば、本当に生き生きとして生きているには浮遊せねばならぬ。
明日をも知れぬ、いや、一寸先は闇の身にこそ生、宿るべし。

もっとも一寸先に闇が待っていることを知らぬが仏は御本人様だけだったりするものだ。
真っ暗クラの暗中では浮遊出来ない。浮遊感を掴めないのである。

それは、確かに感じたことがある。

飲んだ朝でして

御一緒させて頂いたのは久方の同席、日頃、尊敬する方でして。

のわらりには、昨夜は昨夜ですっかりと飲んだくれまして。
今朝ほどは文句の一つも顔に出さない女房に生かされてる幼子でして。

風さまの「爛熟」は酔い頭にはキツイかと想いきや、これがまた。
自己に沈潜したマグマが言葉になって噴出した世界は、かくも、と夢中になって読んでしまったのです。



しょせん、人は食って寝て糞して草葉などと想っておりますが



想ってはおりますが、何ゆえ、こうして骸にしがみ付いているのか、と。
テレビでキンキン声を張り上げている、かの女性は現実なのでしょうか?
私は爛熟に、いや、爛熟こそが現実と感じるのです。

おもいおもわれふりふられ・・・

世の中はすれ違いの隙間に本当の姿を見せるのかもしれませぬ。
ならば、と答える何物もありはしませんが。
あっしも好きにやっていきたいもんですね。
こうして白昼夢を見てるより、大事なもんがあるような気がするんですよ。

飲んだ朝でして

ちっとは目が覚めたのやもしれませんね

2006年01月18日

り・すたーと

すっかり御無沙汰しておりました、まっくです。
こんなに間が開いていたのに・・・本当に有難う御座います。

色々と「書こう」としてましたが、今後は、もっと自由に書いていこうと想います。
「文芸」という拘りの枠を外して。
本当は文芸と言われる分野にしがみ付きたい気持ちも残ってるんですけれどネ(^^;
だから、たまには似非文芸モノも書くかもしれません(苦笑)。
その時は、是非とも笑って読んでやって下さい。

自分は、もっと自由に書く方がいいや、と想いました。
格好よく言えば、エッセーみたいな感じですか?
時事モノや独断で書評みたいなのも。
自分で一から書くより、世の出来事や人の書いたものを基に考えたこと。
なんとも怠け者発想ですが。
他にはビジネス・ネタも(笑)。



最後に、これだけの空白期間、たまに覗いてくれていた方々がいて、
コメントまで頂いていて、返信もしないで・・・
本当にすいませんでした。そして、心から有難う御座います。

そういう方々にとっては、
「こんなヤツだったのか?」
という記事も増えると想いますが、そういうヤツです。

なんか、開き直ったら少しは心のツッカエが取れました(苦笑)。
これからも宜しくお願いします。

まずは、このような形で恐縮ですが、御挨拶まで。

2006.01.18.
 まっく