2004年12月

2004年12月31日

雪、陽熱の。

陽熱に慈しまれて一色の。
ブ厚く歪なグレーの塊となって。
 ギュボッ ギュボッ

争い期せずも争い、向い来る。
もどかしさに先行かんと向い来る。
今更ながら遥かな天空への辿道を
かくもノンビリと戻るのはもどかしく。

お前はあちらへ、私はこちらへ
舞うロンドに急きながら。
 ドルッ ドルッド ドルドルドルルッ

掌に舞い落ちるので見んとすれば姿なく。
陽熱を込めた結晶を誇る間もなく。
化石を掘り起させるために?

同じく陽熱に育てられたではないか?
恨めしげにユクリと結晶を解き、
ダラリとグラスにへばり付き垂れて。

お前の役割は終わったと次の者が。
お前の役割も終わったと次の者が。
呼応する空気に潜む仲間がグラスに息を吐きかけ、
せめても消え跡位は残せぬものかと思案気に試みる。

煙ぶる野畑はすでに陽熱に愛された者同志、
戸惑いに僅かの仲間を消したれども
次々と犯されて初めて我を取り戻して一色に。
陽熱の慈しみを分け合い語らい始め。

全てを凍てつかせる、あの陽熱を忘れた者は
恐怖に駆られて陽熱の残骸を醜く集め。
天陽の使者を見ること死神の如く凍え縮み。

遠き記憶に一色となって分かち合う喜びを忘れ。
透明な鈍き一色の輝きを茫洋と眺めながら、
煙ぶる中に幻陽を灯して誤魔化しているのだ。
 シン、シンシン

今や天上に昇るに要したエアーも道を譲り、
さらにスピィードを増して集うのだ。

自らの屍に自らを重ね合わせ。
陽熱の子としての記憶を確かめながら。

ただ一色に、一つになって歌うのだ。
君を待つと静かに儚く歌うのだ。

2004年12月27日

朗読詩

詩を朗読する活動があるのは知っていたが、
WEB上ながら朗読詩を聴いて面白いな、と想った。

コトバは、書かれるだけでも話されるだけのものでもない。
そう考えれば、朗読というのはコトバの活動としては
あって不思議ではないのだなぁ、と。

以前は違った。
大げさな抑揚だけでも食傷してしまい、
たった1分の朗読にすら耐えられなかった。

聴いたものは大して変わらない印象もあったが、
「朗読」という作業を通じて、詩が変容する様が面白い。

実は、私はこうして書いている時に、
無意識にも自分のコトバを「読んで」いる。
稀に推敲するときがあるが、大抵は「読むリズム」の調整だ。

「朗読するもの」として書いたとき、
いや、私の書いたものが朗読されたとき、
そこにどんな世界が広がるのだろう?

でも、やはり人に朗読してもらいたくはない気も。
自分のコトバは、自分の声で読んで欲しい。
というよりも、自分が読むことを無言の前提に書いている気がする。

私のコトバは、自分で想っていた以上に
叫び声を上げているのかもしれない。
いやきっと、コトバ綴る人は皆、同じなのだろう。

捨貝

メダカでも飼っていようものなら、
水槽にへばり付くモヤイガイに厄介な想いをさせられる。
一体、彼らはどこから侵入するのか。
気付けば何を飼っているのか分からぬ様相。

鎧に身を固めて水面を背面遊泳しながら、
健気に口をパクパクしては餌を横取っては増える。
苔をネメ尽くしながら増える。
水底の汚物を拾っては増える。

どこぞのアニメイシヨンでは、神話化した汚物浄化者。
汚物の全てを、その身中に留めるなど出来もせず。
浄化し切ることなぞ出来もせず。

ただ一介の生物としてヌメ動くばかりの闖入者。
その繁殖力には驚くが、ゆえに厄介な闖入者。
一つまみしては捨てる毎、
神話宿る身は奇妙な感触を残して萎みゆく。

まっく記 at 12:22 記事全文
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スケッチ 

年賀状

毎年、やはり来る年賀状。
送ってしまう年賀状。

謹賀新年、賀正、あけましておめでとうございます、旧年中は御世話になりました・・・

一枚一枚をめくる年賀状に書き連ねられた文字。
幸せそうな家族写真。

よもや年賀状に
「旧年中は御世話して頂けなくて残念でした
 今年も無理とは思いますが年賀状だけ出しました」
とは、多分、書くまい。

年賀状をめくるその手に、どれ程の辛さ、寂しさが宿っていても、
このPC全盛の時代になれば尚のこと。
画一化された慶賀が宙を舞う。

やはり今年も年賀状。

2004年12月26日

平凡な人の平凡な生活

モノを書いたりしていると、
どうしても非日常を書きたくなることがある。
実際、非日常的な状況下では
人の本性めいたものが浮き上がるかに想える。

しかし実際はどうなのだろう?
人に潜む残虐さ、身勝手さ、ずるさ、醜悪さ。
人に潜む優しさ、労わり、高潔さ、美しさ。

それらはきっと、平凡な日常に現れている。
確かにエンタアテイメントとしての面白みには欠けるやもしれないが。
批判を余所に長寿を保っている某TVドラマの人気の理由は?

一昔前には、純文学は大衆文学に勝るかのような錯覚をしていたこともある。
純文学と大衆文学の違いも知らぬのに。
いや、違ったとしてなんの意味があろうか。

何をどう書きたいのか?
その動機は書き手に委ねるしかないが、
きっと何処にでもある、見かける些事にこそ書くべきものを見出したい。

そんな傲慢さこそがいやらしいことは承知の上で、
平凡なソコに、人の世の素晴らしさ、寂しさを見取れる人でありたい。
きっと、そんなところに徒然の落書きの意味もあるような、
そんな気がするから。

まっく記 at 21:16 記事全文
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siteki想論 

言の葉朽ちて一人

災害が多いと「頑張って下さい」の言葉が舞う。
たれぞと言わず、物言うだけかとの言葉も舞う。
それはそれ、どちらの言い分も分かる気がするような。

鬱や、ある種の強迫観念に駆られているときは、
「頑張れ」というは、禁物という。
本人をより切迫するから、ということらしい。

しかし、言葉の元を辿ればニュース・キャスターが無表情に
原稿を読むだけとは事情が違わないだろうか、とも想う。
いや、ニュース・キャスターでさえ無表情だから、かとも。

人にして最大の恐怖の一つは、孤独であるという。
確かに一切の人との交わりを絶たれれば、
それだけでもさほど時をかけずに気狂った面持ちにもなるもので。
口先だけの言葉もて、人に触れるだけでも狂喜せんこともなく。

その言葉の発する元に触れることなぞ出来はせぬのに、
この種の論は不毛であろう。
そも言葉なぞ、かように朽ちてしまうものなのだと想えば憐れなものだ。

ムツカシイ記号論やら何やらを持ち出さずとも、
言葉の持つあの憐れさは、皆、心しているのです。
心しても、発せずに居られず「嗚呼」と嘆くのです。

嗚呼、と嘆かんために言葉を作ったわけではあるまいに。
それでも言葉果て嘆くのです。
一人切りの寒空に、嗚呼と嘆くのです。

いつか貴方と言葉交わせることを夢を見て。
一人切りの寒空に、嗚呼と嘆くのです。

抱き合えば、交じり合えばと想えども。
つまるところはこうして一人切り。
寒空に、嗚呼と嘆くのです。

まっく記 at 16:46 記事全文
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siteki想論 

「脱糞 浣腸」でgoogleトップ

先刻「なぜに、このブログにgoogleから?」と想い、
コレなぞ見て軽くショック。
(今さっき見たらロボットの巡回で外れたランク落ちしたようです 同日21:00追記)

「脱糞と浣腸と」をgoogleさんに拾って頂いた上、
あまつさえ「脱糞 浣腸」でトップの光栄を頂戴しているとは(西暦2004.12.26.)。
その趣味でおいでの方には大変、失礼致しました。
興趣をば、削がなかったことを祈るばかりです。

さてぞ、私自身はそちらの性的嗜好はないとはいえ、
こうして書きものなぞし始めてみると、
ましてや人の言葉まで欲しいと想うとなると、
そこにどれだけの違いがあるのか?
と言われれば言葉にも詰まります。

実際、書きたければ御自由にお書きになるだろうに、
言葉が欲しいなぞという想いを抱えているのは、
まるで浣腸を手にして御尻を捜しているようなものです。

ランボオのような才もて言うのとは訳が違いますが、
こうして書いてみれば、やはり脱糞以外の何ものでもない。
回廊さんが鋭く指摘されるように、生きることを脱糞行為と重ね見れば、
高尚なフリなどバカらしくて出来はしませぬ。

せめてスッキリとしたいもので御座います。

2004年12月25日

醜悪賛歌

「分け入った先の聡明」に寄せて

想ひ出すことはなかろうか
勇気を奮って見たれども、見たれども醜悪な
生臭き吐息もて涎を垂らしてジと我を見据える醜悪な

俺を見ろと迫る 奇怪な声に怯へ震ゑ
遠き劫火に焼け爛れて喘ぐ声に耳塞ぎ
せめてもの我を保たむてふ勇気を萎えさせ轟かむ

いつの間に巣食ったかも知れず
怒りを携えた真っ赤な眼に嘘をつくな
さふ言っているてふは気のせいか?

確かに今の私は お前よりも美しい
といへども美しいフリをしているのは私の所為ではない
決して私の所為などではないのだ

哀願しても無表情なままに大口は喰らわむと
その大口のむかふに見えた気がすは何ぞ
美しき賛歌の響きは何ぞ

嗚呼、あなたは草葉の隣の大奥様ではありませぬか?
嗚呼、あなたは草葉の角の旦那様ではありませぬか?

大口のむかふで 皆が笑って手迎へされている
いや来るな、と手振りされている

このままにいて宜しいのでせうか
私はまだ このままにいて宜しいのでせうか

答えなぞないのは とうに分かってはいても
時折はお訊ねしたくなるのです

私は このままにいて宜しいのでせうか

公開マスタアベイシヨン

何故にこのようなツラツラを書くに至ったのだろう。
今頃になって考えることでもないのかもしれないが、
いつも触発を受けているミヲリさんのエントリで、らしくない内省を少し。

「どうせなら、書き物でもしてみたら」
ヒョンな一言に、言葉にしなくては暴発しそうな想いを乗せた言葉を書きなぐり、
それは全き孤独なマスタアベシシヨンでしかなかったが。

たまたまランキングの成績が良いのは自票のためだろうが、
それでもブログ・ランキングなぞをやっている心を探れば、
やはり読んで欲しいという気持ちが芽生えていたのは確か。
そして、こうして書いているもんは、どうなのだろう?という想い。

ランキングよりも、むしろコメントに飢えている。
私のところに来てくださる方は、皆、静かに去っていく。
時に暖かい言葉に触れようものなら、
「まぁ、このまま書いても良いのか」
などと、大きく安堵したりして。

いつの間にやら、孤独なだけでは物足りなくなった公開マスタアベイシヨン。
読んで欲しくなければ、一人でワープロとでも遊んでいれば良い。
ましてやランキングに登録なぞ、しはしない。
やがては公開マスタアベイションでは物足りなくなりゆくのだろうか?

「ピュアな表現者」などとは無縁の世界。
ピュアに自己の創造世界に入りたければ、むしろ露出など不要だろう。
それは「言葉の世界」に限らない。

誰が、全世界で創造される全てをその目に、耳にしているだろう?
所詮、見せてくれたものしか見れはしない。
「見せたい」気持ちがなければ、見れはしない。

少なくとも、私は「見られたい」のだ。
公開マスタアベイシヨンして満足している今の私には分からない。
物を作るとはナンなのか? 言葉を紡ぐとはナンなのか?

マスタアベイシヨンの見せ合い。
そんな滑稽で少し寂しい世界観の中で私は呟いている。
きっと、本当は、もっともっと激しく交わりたいという欲望を果たせずに。

サンタクロースの寝坊

昨晩はイブなので、まだ出番は早いかと思いきや、
クリスマス・プレゼントはイブ?
我が家の「サンタクロース」はあわてんぼうである。

急遽、娘の寝息を伺い、ソッと枕元に箱を。
本当に大きく育ってくれた。
両の掌に乗るほど小さかった命がかくも。

私宛に小さな冊子が一冊。
あわてんぼうのサンタクロース宛の本。
習いたてのひらがならが ミッシリと詰まった本。

さてと寝込もうというその時、ムクリと起き上がる長女。
プレゼントに向かって座り、無言でボーッと眺める背中。
「・・・」 コテン。

伺いに行った寝息は、すでにゴーゴーと。
念の為、話しかけても起きはしない。

朝、突然の嬌声に目を覚ます。
年に一度の、サンタクロースのお楽しみ。
「おゎ〜、サンタさんが来たよぉー!!」

(しめしめ・・・)
我が家のサンタクロースは寝坊助でもある。
ウツラ夢の中でニヤリとしながら夢を見る。

来年? 再来年?? いつになるだろう。
君のサンタクロースが横で寝ていることに気付くのは。
でもね、そのことに気付いたときは、一つ学んで欲しい。

世の奇跡も魔法も、人が作り出しているということを。
素晴らしい魔法を使う力が君の中にもあるということを。

そのことを学んでもらうために、
来年も、あわてんぼうのサンタクロースは寝坊します。

2004年12月24日

裏返りジグゾー

夕焼けの写真と朝焼けの写真
仮に知らない場所の 二枚を並べられたら
私は区別がつかないだろう

なのに夕暮れ時には フと寂しさを感じてしまう
何が寂しいのかも分からずに 寂しくなってしまいます

稀にしか見ない朝焼け時には ハタとヤル気に満ちてしまう
何がやりたいのかも分からずに ファイトに溢れてしまいます

子供の頃は 夜は魑魅魍魎が出る不思議なあやかしの闇にドキドキし
学生時代は 夜は男女入り乱れての乱痴気騒ぎに春を謳歌し
きっと 夕暮れ時は寂しいばかりではなかったはずなのに

子供の頃は 行きたくもない学校のことを考えては駄々をコネ
学生時代は 惚けた快感が虚しさに変わっていくのに情けなくなり
きっと 朝日が昇るとて 嬉しいことばかりではなかったはずなのに

同じ一葉の写真の表裏 なぜにこうも違うのだろうか
そこには 忘却の彼方に葬られた記憶が宿って
想い出せと叫んでいるかのようだ

全てを面白おかしく過ごすだけが人生とは想わない
それでもやはり、パズルの裏表を引っ繰り返したくなることがある
明るい燦々たる陽射しに いつでも包まれたいと想うことがある

眉間にシワ寄せるために生きているのではない
そう叫びたくなることがあるのだ

私は叫び続けよう 大声で叫び続けよう
パズルが面白おかしく組み立てられるように

想い模(かたど)りて

人は、それぞれに形に現れない「想」を、これほどかと抱えている。
想は形を求めるが、その「道具」として与えられたものの一つが言葉。
怒り心頭に至って引っ叩くのも、想が形に現れたもの。
想は、体を借りて形として生まれ変わる。

想は、本来はそのまま想のまま静かにしているのが幸せかとも考えることがある。
想い耐え切れぬ「現われ」は、必ずしも想に合致しない不器用さを露呈するからだ。
そう考えると、言葉のなんと不自由なことか。

「万余の人中に、荒野に人無きが如く」とは武勇・英雄に良く使われるが、
万余の人中に、荒野に我無きが如く。
かかるような人にこそ、誠が宿るのではなかろうか?

とすると言葉なきままに生きる術を探したくもなるが、
想を想のままにしておくことは、
ある意味、特殊な訓練が必要で、通常は立ち入るべき域ではない。

やはり、考え過ぎずに想いそれぞれを形に乗せて人生を綾作り、
それでも想ったようにならず不器用であっても、
「人生、楽しかったではないか」と感じれれば良いのではないかと。

悪戯な模りは、むしろ醜悪でしかない。
況や、赤想なき形なぞ塵芥にも劣る。

最近、少し書き物をしているせいか、
「言葉」について考えることがある。

私の書き物というは、あくまでマスタアベエションなのだが、
やはり言葉は人と人を繋ぐために作られたのだから、という忸怩たる気持ち。
しかし言葉の持つ不自由さ、歪さ。
いや、扱う自分の不器用さ。

「愛しい」と言葉にすれば、それだけでしかない想も、
その「本体」は、ただただ我が子を抱き見る母の眼のようなものであろう。
そこから発離して抱きしめてしまうところで彼我は分かれてエゴに育ち行く。

しかし、きっと、そうではないのだ。
人に宿る模らぬ赤想に、静かに思いを巡らす時があっても良いのかもしれない。

まっく記 at 16:04 記事全文
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siteki想論 

2004年12月23日

社長の血液型

あの風さんが、ここで既に笑っては失礼かと想いつつ笑ってしまいますが、
鋭く文芸家の目を以って「血液型」で見る4タイプの分析を試みられています。

私は血液型には精通などしておりませんが、
やはり多くの人を見ていると、一定の傾向がある事に異を唱える気にはなれません。

元来、私の思考には「現れ」というものが御座いまして、
姓名学から近日、試みた易などまで、
やはりそこには何かしらの「現れ」があると見ています。
その意味では血液型も、むべなるかなと。

ただ一点。
さような「現れ」というは、そもそも姓名や血液型に遡らずとも諸所にあるもの。
「一定の法則」に神を宿したかのような面持ちにて人様を当て嵌めんという考えが気に食わぬ、
というところでしょうか?
(風さんの御遊びのことではありません 為念)
血液型に一喜一憂するよりも、自分を、そして人を深く知る術はありましょう。

さて表題に立ち返りますれば、
血液型鑑定士と化した風さまによりますると
日本の社長で最も多い血液型はO型だそうです。
ズバリ血液型を当てられ、似非社長業を営む身としては、
粛として拝受し奉らんと想います。

さわやかラベルとマゾ女と

とある若き友の秘めたる悩みの一つは
「さわやかイメージが先行して女性が安心してしまい、
 機を逸してしまう」
ことだという。
「まぁ、妙齢の女性に可愛がられるから良いではないか」
とは励ましにならない。

男にとって、ある種の「さわやか」「優しい」というラベルは、
確かにひどく迷惑なことがある。
特に若い時は、清き恋心と醜悪な性欲がないまぜにになっているのが、
多くの男の共通項ではなかろうか?
中高年に至れば、清き恋心は想い出のうちに遠望するのみである。

一方で、己の性欲のままに突っ走る輩もいる。
学生時代、友人の知っている人間がその手のタイプだった。
いつも複数の「ヤリタイ」時にヤレル女性を抱え、
ヤルために生活があるかのようなタイプだった。

友人から伝え聞くその模様には、その男自身の酷さ弱さもあるが、
その向こう側にいる女性の「マゾ性」もまた、見え隠れしていた。
ある種の女性は、確かに悲劇的状況(?)を与えてくれる男を、
意識してかせずか、あえてとしか傍目には言えない「選ぶ傾向」がある。
組み合わせの妙でもあるが、他人の介在し得るものではないところ。

まこと不可思議な男女の妙である。
「男と女の間には」とは昔歌ではない。
いつまでも続く永遠歌なのであろう。

私?
私は自分に正直なので、「したい」と想った女性には、
その想いを一杯詰め込んで、
「今度、一杯行かない?」
と申し上げるようにしてます(した)。

2004年12月22日

凍てつく炎

釘立たぬとも 遥か先には地面もあろう
厚い氷に閉ざされて 静かに地面は生きている
地軸のウネリを響かせながら
氷結したマグマの子孫ながらの凛々しさで

薄曇に見えずとも 遥か先には星が瞬く
真空の中で 静かに星は瞬いている
宇宙軸を大きく駆け巡りながら
マイナス千度で激しく炎を立てながら

君は嘆く、君は歓声を上げ、時に歌う、踊る
せめて目一杯の優しさを込めて見つめるしかない
瞳はいつも、凍てついたまま真空に漂っている

恋に遠く、友に遠く

都心から、一時間もかからない駅に借りたアパート。
ピカピカの新しさはなくても 嬉しくワクワクするものだ。
そのワクワクは、今でも胸に蘇る。

1DKは、新しい二人には丁度良い。
どこにいても 互いの息遣いが聴こえる。
一人でいても、君の香りがする。

腰が落ち着いた新居の周囲は 自転車で巡るに相応しく、
色鮮やかな人模様、家族模様に幼目を魅かれたものだ。

探検好きな君が見つけた 駅から離れた居酒屋は、
田舎には珍しいほど手狭だったものだ。

小奇麗な店内に夫婦が忙しく立ち回り、
冷えたビールがケースから粛々と旅立っていた。

あの時を今でも覚えているだろうか?
カウンター向こうのマスターに想い想いのものを頼み、
ニコニコと過ごすのが何よりも楽しかった週末。

隣席の君は、恋を語るには遠く、友情を語るにも遠く。
遠く離れているはずの君が、なによりも近しい人に想えたものだよ。

あのカウンターの席の間には、
不思議ななにかがあったのかも知れない。
今でも、こうしてあるように。

2004年12月21日

陰陽と女性時代

「易経」という書物がある。
現代でも解読可能なものとしては世界最古典の書物。
中国思想の源泉であり、その影響は甚大なものだ。

本年の今日21日は「冬至占」と言って、古来、
「君子不占(「君子占わず」)」の原則例外として、
「自分の時」を知るために謙虚になって筮(占果)に傾聴すべき日とされて来たという。
(詳細は「亞の玉手箱」にて)

そんなわけで、本日は易占いのために精神統一。
といっても、私の精神統一たるやボーッとするだけなのだが。
易占いは森羅万象、曼荼羅の現れでもあり、
その「現れ」は無心になって初めて形を成す。

その結果はさておき、易の基本には「陰陽」がある。
男女で言えば男性は陽、女性は陰。
であるからして、男性の道具を「陽物」といい、女性の持ち物を。
ということになるようだ。

「陽」の性質に立ち返ると、「物」を追求するのは、
女性からするとバカらしく想われることもあるかと想うが、
むしろ男性の自然の性なのであろう。

私も、そういう意味では本質的には「陽だらけ」の方だ。
堀江氏の過激な発言も、頷けることは非常に多い。
「陽が強過ぎる」とは、よく言われたことだが、
反面、タイミングよく「陰(精神面)」で女性に幾度となく救われている。

しかし、時代の流れを見やると「陽」の時代は転機を迎え始めた気がする。
それは女性の社会進出という「形」からではあるが、
その低層に流れている本質は「陰」への転化にある気がする。

元来、男性優位の社会・時代は当然ながら絶対ではない。
物質的な世界において、初めて男性は生来の性質を十分に発揮し得る。
しかし今、その物質的な世界での価値判断に、
諸所で「揺らぎ」が生じているのは誰もが感じていることだろう。

それは陽の化身とも言える堀江氏の発言、企業動向にも見て取れる。
「物」より「サービス」重視というのは、
陰陽の考えで言えば陽から陰への転換と言うことになる。

といって、急激に「陰」一様になるわけではない。
時代は、時に急変するようで、その本質は急変することはない。
やはり変化が目に見えるようなハッキリとした体をなすまでには、
一国内のことであっても数十年、世界的な規模では百年はかかると見てよい。

私はフェミニズムに興味はないが、そういう観点からの「女性時代」には興味がある。
我ら男性は、自らの雄雄しさを十分に発揮するだけでなく、
また女性は、自らの鋭い感性で野暮な男性をやり込めるだけでなく、
相互にパートナーとしての十分な敬意を持って接するべき時代になりつつあるのかもしれない。

2004年12月20日

こうさぎ虐待

ブログの言葉を拾い覚え、書き込みまでするという「電脳ウサギ」いや、「Blog Pet こうさぎ(多分の正式名称)」。
設置をしたはいいが、チラリと他で見かけた時に比べて「反応」が鈍い。

もしかしたら、私がトップ・ページが長いのがイヤで、本文と追記で分けてきたのが災いしているのかもしれない。
ということで、この文章(他も?)は本文スペースに一気に書いてみることに。
一方、改めて自分の書いてきた「文(?)」を読んでみたら、一応、文法的には大きくは間違ってないようだが、やはり一風、変わってるのかな?と笑ってしまった。

確かに改行の入れ方、句読点の打ち方、スペース、使ってる言葉の組み合わせは多少、会話で使用するものなどとは違う。
言葉を道具に、なんらかの感覚を表してみたいがために書いている文章が多いので、結果的に機械的に拾えなくなることもあるのだろうか?
ということで、この文章も出来るだけ丁寧に書いているつもりなのだが、「まっくぅさぎ」は覚えてくれるのだろうか?
もっとも、覚えて連呼されても困るような内容のものもあるのが、なんとなく情け泣けない弱み。

それにしても、こうさぎ「まっくぅさぎ」を虐待してる気になってきた。
電脳動物は、ポスペを例に出すまでもなくポピュラーになってきているが、まるでMatrixよろしき「あの気色悪さ」も併せ持ってるものだと再認識。
私は「生きてる」メダカとエビの世話に忙しいので、まっくぅさぎ君は自分で頑張りなさい。

と言いつつ、そのうち電脳動物愛護運動なんかが起きたりすることもなきにしもなかったりして、と考えると、笑っていい想像なのだかどうだか。

2004年12月19日

し綴り人の語らい

濁雨の土砂降る日も
旱陽の照る日も
隙間風の凍える日も
白塗雪の積もる日も

 ガツン、ガツン

グイ飲みウヰスキに胃を焼き
咥え煙草に喉を嗄らし
錆びひしゃげたシヤベルを握り

 ガツン、ガツン

掘り出さんものも知らず
掘り方も教わることなく
穴中に響く嘲笑に身を震わせられて
赤い?血にまみれた手で握り締めて

 ガツン、ガツン

これカと想って地上に放れば
いらぬと頭に投げつけ返され
何を掘れば良いかと訊けば
お前が自分で考えろと謂れ

他でも掘ろうかと想えば
青白い大地は呪いを吐きかけ
掘っても良いかと訊けば
勝手なことをするなと謂れ

掘っても無駄だと想い
放られてたシヤベルは不機嫌に黙り
止めても良いかと訊けば
出来るならするが良いと謂れ

 ガツン、ガツン

 ガツン、ガツン

響く歓声をコソリ覗こうとしても
マ暗な穴に慣れた目は何処とも見えず
風に呆けた口を砂利一杯にされて嘲られ
耳鳴る何を掘っている?に脳髄を満たされる

 ガツン、ガツン

 ガツ、ガツ、ガッツン

掘り疲れて這い出せば
ポゥッと座する名無しの群れ
たれぞ、お前どうだと問えば
みな同顔で天を仰ぐ

空も稀には星をまたたかせるので
ホウッと座すれば立つ気も失せるが
何を掘っているのかと問えば
みな同顔で目を丸くするばかり

シンシンと凍る星々に心打たれて見とれていても
やはりどこかで響いている

 ガツン、ガツン

 ガツ、ガツ、ガッツン

 ガツン、ガツン

 ガツ、ガツ、ガッツン

掘ってる音に惚れてるだけかと想うのだが
そんな人間になる化け魔法を
もしや私は迂闊にも?

 ガツン、ガツン

 ガツ、ガツ、ガッツン

 ガツン、ガツン

偽物主義

2004年12月18日

広告メッセージと音楽

先日、HMVのクラシック・コーナーに行った際に感じた違和感を自分なりに整理。
陳列を見ると、私でも知っているような「メジャー」な演奏者のCDは、やはりズラリと並んでいる。
一方、僅かながら「この演奏者はあるだろう?!」という期待は、かなり無残に裏切られた。

商業主義が悪いとかいうつもりはない。
私も商売をしているから、お金になるものはしたら良いとは思う。
そこで、ちょっと逆説的(?)に考えてみよう。

莫大な資金が投入されるTVコマーシャル。
結局、目指すところは「自社商品を買ってね」ということであり、そのメッセージを届けるために、色々と意図・企画される。
当然、BGMも「メッセージ」の効果を上げる「モノ」という選択をする。

ここで一つ。
優れた音楽は、それだけで他の情報を必要としないパワーを持つ。
勿論、それは楽曲や演奏者にもよるが。
とすると、音楽のパワーが余りにピュアで強烈だと、本来のメッセージ効果を薄めてしまう可能性がある。
これは広告主としては絶対に避けるべき状況。
一方、音楽に付帯して視覚に訴えられれば活用しない手はない。

今頃、気付いたのか?
と問はれれば、そんなこともありませぬが、店頭に並べられたCDを改めて眺めて、寒々とした気持ちになるだけで御座ゐます。
クラシックなどの裾野が広がることは、それはそれで喜ばしいことではありませう。

しかるに、ジャケトを買ひに来る客、況や女性演奏者を自慰道具にでも使わんかのやうな客といふは、音楽界の顧客戦略上いかがなものでせうか?と。
もっとも、商売的には何にであらうと利用されてナンボといふ考え方も御座ゐまするな。

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siteki想論 

幻光

背中を突き上げる底深いチカラに目が覚めると、全身の力が抜けたままの男は、黙って知らず向かう先に想いを馳せる。
その光景を描写すれば、おぞましいホラー映画で呪いのままに宙に浮く姿になろうか。
物体としての役割を疾うに放棄した天井は、浮く身を留めることもない。

むさ苦しい喧騒は下へ下へと遠く降り去っていく替わりに、耳内は寒い高音で唸らんばかり。
向かう先はと宙を見遣れども、そこにあるのは漆黒や青やオレンジや、空の色を構成するに足る色を塗りたくっただけの空間とすら言えるのか。

やがて徐々に戻った体の感覚を頼りに息すれば、透いた空気は気管を通過し、どこまでも肺奥に吸い込まれ続け。
今まで吸わされていた空気とは一体なんだったのかと、想い出すのも吐き気がするような心持ちにもなる。
ただ、ひたすらに吸い続ければ、いさや肺になど空気は入っておらず、ただスースーと我が身に入り行くのみ。

やがてユタリと動作を想い出した体は、右へ、あるいは左へ回り始め。
周囲を見ればケッタイな空色が目くるめくばかりで、回転しているらしい感覚が回転してる自覚を生んでいるだけで回転していると想っている。
寒き高音に痛んでいたはずの耳などは、穏やかな無限音に柔らかく包まれ耳としての役割を放棄して蕩けるまま。

空色の只中で、ひたすらに空気を取り入れながら回転しているツモリになっていたら、どうしようもなく強烈な光が四方八方に遠く去り行くのに気付き、ハタと見れば体と言えるようなものは既にない。
自分と想っていた場所は、ただただ力強く眩く光っていたのだった。

変わらぬ人〜存在証明のオマージュ

セゴビア。
クラシック・ギター界、いや、音楽界の巨匠。続き、こちらにおります

2004年12月17日

昼の星 夜の太陽

昼日中に青空を見ながら、君は問う。
「星ってあるの?」続き、こちらにおります

インストー 混]り[乱 ング

文章に限らないのだが、人は多少なりとも見聞するもの、
環境から色々なものをインストールされる。
インストールされたものは、再度、何かの形でアウトプットされ、
さらなるインストールを描いて。

理路整然、矛盾のない一個の構築物。
人は「一つ」でありえるのだろうか?
重層的に現れる混濁した「私」。続き、こちらにおります

まっく記 at 23:37 記事全文
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siteki想論 

15:00のラーメン

何故か縁のある場所。
気付くと、何故かソコにいる場所。
私にとって、秋葉原はそんな場所。続き、こちらにおります

まっく記 at 23:13 記事全文
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スケッチ 

2004年12月16日

言葉の壁

少し実験的に書いてみたい、と想っていたが、
「あ、無理だ!(多分)」
と想って思い切り笑ってしまった。
何を書こうとしていたのか?続き、こちらにおります

まっく記 at 23:54 記事全文
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siteki想論 

静かで優しき宇宙

男は、夕暮れを背に、いつものホームで待っていた。
 ガタン カタン ゴトン コトン

電車に乗るや、いつものように腕組みをし、
身の安定を確保、早速に眠ろうかとして気付いた。
目を瞑る前と瞑った後の違和感?続き、こちらにおります

まっく記 at 21:36 記事全文
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スケッチ 

2004年12月15日

感覚器の役目、言葉の役目

「やってしまった・・・」

いいな、と想う文をブログで見つけた時に、
「この作者って、どんな人?」
と想った瞬間に感じる自己嫌悪。
せっかくに作者不詳の文を見れるというのに。続き、こちらにおります

まっく記 at 20:57 記事全文
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siteki想論 

未来予報

未来を予報出来る技術が開発されたとしたら、どんな使い方をしたら良いだろう?
若人は恋心寄せる人との未来予報?
高齢になったら、やはり死に時の未来予報?続き、こちらにおります

まっく記 at 17:56 記事全文
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siteki想論 

ファサリとブローカー

電話の向こうから聴こえてくるものはいつもと同じ。
「○○××○○××」
あぁ、今回はFAXだ、今回はメールだ。続き、こちらにおります

まっく記 at 17:38 記事全文
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スケッチ 
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