2004年12月24日

想い模(かたど)りて

人は、それぞれに形に現れない「想」を、これほどかと抱えている。
想は形を求めるが、その「道具」として与えられたものの一つが言葉。
怒り心頭に至って引っ叩くのも、想が形に現れたもの。
想は、体を借りて形として生まれ変わる。

想は、本来はそのまま想のまま静かにしているのが幸せかとも考えることがある。
想い耐え切れぬ「現われ」は、必ずしも想に合致しない不器用さを露呈するからだ。
そう考えると、言葉のなんと不自由なことか。

「万余の人中に、荒野に人無きが如く」とは武勇・英雄に良く使われるが、
万余の人中に、荒野に我無きが如く。
かかるような人にこそ、誠が宿るのではなかろうか?

とすると言葉なきままに生きる術を探したくもなるが、
想を想のままにしておくことは、
ある意味、特殊な訓練が必要で、通常は立ち入るべき域ではない。

やはり、考え過ぎずに想いそれぞれを形に乗せて人生を綾作り、
それでも想ったようにならず不器用であっても、
「人生、楽しかったではないか」と感じれれば良いのではないかと。

悪戯な模りは、むしろ醜悪でしかない。
況や、赤想なき形なぞ塵芥にも劣る。

最近、少し書き物をしているせいか、
「言葉」について考えることがある。

私の書き物というは、あくまでマスタアベエションなのだが、
やはり言葉は人と人を繋ぐために作られたのだから、という忸怩たる気持ち。
しかし言葉の持つ不自由さ、歪さ。
いや、扱う自分の不器用さ。

「愛しい」と言葉にすれば、それだけでしかない想も、
その「本体」は、ただただ我が子を抱き見る母の眼のようなものであろう。
そこから発離して抱きしめてしまうところで彼我は分かれてエゴに育ち行く。

しかし、きっと、そうではないのだ。
人に宿る模らぬ赤想に、静かに思いを巡らす時があっても良いのかもしれない。

まっく記 at 16:04 記事全文
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