2004年12月15日

感覚器の役目、言葉の役目

「やってしまった・・・」

いいな、と想う文をブログで見つけた時に、
「この作者って、どんな人?」
と想った瞬間に感じる自己嫌悪。
せっかくに作者不詳の文を見れるというのに。

学術・芸術で括られる分野に多少とも触れていると、
薀蓄を嫌う人でも「薀蓄」から逃れ得ている人は少ない。
私の中にもある「そういう傾向」を見ると、一気に書く気力も失せる。

学生時代、バーテンらしきことをしてた時に、よくやっていた「悪戯」がある。
酒の薀蓄を傾けている客に、ワザと違う酒をスッと出すのだ。
プロだった私より遥かに詳しい薀蓄が文でも読み上げてるかのように滔々と流れる。
随分やったものだが、残念ながら違いを分かった人はいなかった。

「感覚」の鋭い人は実在する。
それは確かなのだが、その「感覚」が薀蓄とは無縁に存在するのが可笑しい。
いや、薀蓄と感覚は反比例することの方が多いかもしれない。

薀蓄など一言も発せず黙って飲んでいた人が、小声で控え目に
「あれ?これ、違うみたいなんだけど・・・」
溜息が出るほど鋭い人が稀にいた。
一般的には、純粋に自分の人生を楽しんでいる人ほど、
薀蓄とは無縁に見抜く力を持っていることが多いようだ。
先天・後天的な感覚器などの鋭さも、残念ながら捨てられない。

さてと、何故に薀蓄を毛嫌いするのか?
それはピュアな楽しみを私から奪うからだ。
他人に良くても、自分に良いかどうかは全く別で当然だ。

純粋に「感覚」を楽しむのに、付帯情報は邪魔にはなっても
役立ったことはほとんどない。
「評論家」と言われる人々の言辞など、何をかいわんや。
「言葉」で表現出来るのなら言葉で表現した方が手っ取り早いことも多いのだから、
評論言辞が「楽しみを奪う」のは止むを得ない性かもしれぬ。

実際問題、多くの人が楽しみ利用したいのは、
自分の感覚よりも、誰にでも分かり易い「薀蓄」なのだ。
彩り鮮やかな薀蓄は、それはそれで才能の発露でもあるとは想う。
自分の感覚を、しっくりと自分の言葉に馴染ませるのに寄与することもある。

しかし、である。
「本当に分かる」のなら、少なくとも事前の薀蓄は不要だろう。
感覚器は、愉悦を味わうために存在していると言っても良い。
言葉の役目は、感覚器の役目を奪うことではない。

まっく記 at 20:57 記事全文
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この記事へのコメント

1. Posted by 成冨ミヲリ   2004年12月16日 20:50
肩書きのない人になりたいと思い、早5年。
とは言え薀蓄をつけないと納得されないので、たくさんのコピィを自分につけて売り、でも結局はそう言うところで見て欲しくないとも願い、無名でいることに安堵したりする。

このエントリ、非常に分かりやすくて目から鱗。
特に最後のほう。

たまに、キャリアなどではなく、純粋な目で作品や言葉を味わう人に出会うと
嬉しくなるし、羨ましくなります。
そう言う人がたくさんの文化を育ててきたのでしょうね。
そう、たった一部の曇らない目を持つ人が。
2. Posted by まっく   2004年12月16日 21:22
肩書きを置き忘れて、まだ数分のまっくです。
私は、薀蓄を覚えるのが苦手、
というより覚えられないので屁理屈をこねてます。

作り物(特に書き物)は、有無を言わさないような迫力というか、
存在感を持たせられれば一つの理想になるかというとそうでもなく。

とりあえず、ミヲリさんのCD&ライブのご成功を!!
・・・って、祈ってるだけかいっ!
なので、行けそうだったら行きます。

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