2004年11月30日

誰もがすなる好き嫌いといふもの

武士「道」については、よくは分からない。
好きな方にお任せするに如くはなかろう。

しかし「武士」というのは、本来、人を斬殺するもの。
それが私の「武士観」だ。
武士(もののふ)に対して「文士」という言葉がある。


ここで言葉の定義やらを考え始めればキリもなく、詮もない。
しかし「文士」という言葉には、ある想い、そして覚悟を感じる。
今の世に「物書き」は溢れるほどにいる。

今は、その刃を鞘に納めてはいるが、この方の一文にハタと想う。
誰もがすなる好き嫌い。
それを「文学」の基準にすれば、売れるかどうかが「文学の価値」にもなろう。

私の読書のほとんどは、好き嫌いしか基準にない。
「ここに書く」のも好きな文を書けないか?という単純な思い立ちに因っている。
もっとも、その好き嫌いは世間様とは相当異なるようではあるが。

このような論争・議論(?)は幾度も繰り返されて陳腐化しているだろう。
しかし、一度は書かずにいられない気持ちになるのは私だけであろうか?
「売れる」ことは、それ自体、特段に忌み嫌うべきことでもない。

しかし、この苛立ちはなんであろう?
「良い」と巷間、言われる本を読む度に募る怒りはなんであろう?
食事を抜いて本を買い漁り、それでも読んで満足出来た日々はなんであったのだろう?

多少の文章「術」なら、読み手として心得ている。
ストーリー・テラーの手練手管も凡そは読めるが目を瞑ろう。
暇潰しだけで読み捨てるだけの本ならば、それも良い。
楽しく、時に面白おかしく読める本も良いものだ。
印税の「寄付」も暇潰しには惜しくはない。

想えば、文学と言われるものの真っ当な読書から離れて10年を軽く越える。
文士を名乗って誰憚ることを知らぬ者の、ギリギリと歯軋りが響くような、眩暈を覚えるような。

そんな「刃」を求めるのは、時代遅れの嘆きなのだろうか?
読者の心を切り裂かん刃は、今でもどこかで眠っているのだろうか・・・
書き手の眼(まなこ)に映っているのは、一体、なんなのだろうか・・・

まっく記 at 22:43 記事全文
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1. 文学界新人賞  [ くる書店 ]   2004年12月01日 19:35
今日、子どもを連れて本屋へ行きました。おとなしく待っていてくれるのは、5分かそこいらなので、『HTML+CSS HANDBOOK』と『文学界12月号』をつかみ、すぐにレジへ向かったのですが、お客さんが並んでいて、そこで少し待たされたので、文学界をぺらぺらとめくり、新人賞を

この記事へのコメント

1. Posted by 回廊   2004年12月01日 19:33
こんばんは! トラックバック、ありがとうございました♪

>しかし、この苛立ちはなんであろう?
>「良い」と巷間、言われる本を読む度に募る怒りはなんであろう?
>食事を抜いて本を買い漁り、それでも読んで満足出来た日々はなんであったのだろう?

せつないです…。
それだけ、まっくさんの深部に触れた、優れた本が、過去にあったということですよね…?
まっくさんはタルホでしょうか?
私はダザイです。
「いいなぁ」と思う本はいろいろあるけど、「食事を抜いて本を買い漁り、それでも読んで満足出来た日々」となると、ダザイです。

今の作家さんでも、「ダザイが好きです」とおっしゃる方の、書いた小説には、やはりどこか惹かれるものがあります。そういう人を、ぽつぽつと探して読むのも、楽しいです。ダザイはもう死んでいないし。読み直してばかりいるのも、なんだか悲しいし。

時代遅れだとは思わないですよ〜。
いえ、時代遅れだっていいんですっ!!(笑)
2. Posted by まっく   2004年12月01日 20:00
こんばんは。

私は多分、特殊(?)だと思うのですが、作家での好き嫌いは意外となくて、作品そのものの好き嫌いで読むほうなんです。タルホ、ダザイも好きな作品もあれば、「ん・・・」というものもあり。と、偉そうに(笑)。

しかも一番の問題は・・・記憶に残ってない、ということですゎ(爆)。多分、私の書く文と引き合わせられる名文というのはあるとは思うのですが、思い出せるほどの記憶力は持ち合わせておらんのです。

それが吉と出るか凶と出るかも、私の「書く楽しみ」ではあるのですが。

切り結ぶペンの下こそ地獄なれ・・・(なんちって 笑)

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